勇気論 内田樹 (光文社)
勇気論 内田樹
勇気のかんどころは「孤立に耐える」ということ。マジョリティが「こうだ」と言っても自分は違うと思ったら、自分の直感に従う。正直というのもこれとおなじことです。できあいの定型句(というのは「みんなが使う言葉」のことです)に自分を預けずに、自分の思念や感情をできるだけそのあいまいさも込みで表現すること。複雑な思いを複雑なまま言葉にすること。「うまく言えない」のだとしたら、その「うまく言えなさ」を言葉にすること。
メタメッセージにおいて人は決して嘘はつかない。
僕はうそつきですというのは決して嘘ではない。
正直であるためには自分から離れる必要がある。知性的感情的な成熟が必要になる。
「有閑階級の理論」ソースティン・ヴェブレン
略奪以外の手段で財を取得することは最高の地位にいる男にふさわしくない、と判断されるようになる。同様な理由から、生産的な仕事の遂行や他人への奉仕も同じ汚名を着せられる。略奪による英雄的行為や取得と産業的職業との間に、このような妬みを起こさせるような区別が発生する。労働は、それに帰された不名誉ゆえに、厭わしいという性質を獲得するのである。」
労働は、人類史の黎明期からすでに「厭わしい」ものだったのです。
農業生産が始まったことで「非生産者=専門家」が発生します。そして、その時に人類は驚嘆すべき事実を知りました。それは自分は食糧生産に携わらずに人に労働させるだけの非生産者がいる方が生産量は増えるということ。
文明社会にもさまざまな「異属」や「野獣」が姿かたちを変えて蟠踞しています。例えばSNSでの心無い書き込みのせいで自殺する人はいまも少なくありません。これは現代社会においても「呪いの言葉」に人の命を奪うだけの力があることを示しています。
ですから、僕はSNSの荒野を歩くときには、太古と同じように、「こっちへ行くと、何か悪いことが起こりそうな気がする」と感じたら、足を止めて、そっと方向転換するようにしています。ディスプレイに並ぶ文字列を遠くから一瞥しただけで「これは読んではいけない」ということがわかる。「読むと魂が汚れるテクスト」「読むと生命力が減殺されるテクスト」というものがこの世には存在します。
触覚的に世界を認識して、触覚的に世界に働きかけるというスキームが最も効果的なんです。
触覚は発生的には五感のうちで最も古いものです。
孤立に耐えることのできる人は他者の他者性に耐えることができる。理解も共感もできない他者を前にして、それを「人間ではない」とか「忌まわしいもの」とかいうふうにラベルを貼って分類して、処理することを自制して、しばらくの間の「判断保留」に耐えることが出来る。
人間の暴力を駆動しているのは「なんだかわからないもの」に対するこの嫌悪と恐怖なんです。あらゆる戦争も、差別も、ジェノサイドも、起源までたどると「他者が他者であることの不快」に耐えられない人間の弱さにたどりつきます。
勇気はこの弱さとまっすぐに向き合い、自分を少しずつ強くするための足場です。
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