表紙オカルト研究


 7 ヒマラヤ聖者の生活探求 

ヒマラヤ聖者の生活探求
ペアード・T・スポールディング
仲里誠吉 訳
第一巻 人間本来無限力

大師=修行の欠課その意識の進化が一定段階、正確には第五階位に達し、見えざる世界に常住する大霊によって叙位された者をいう。自己内在の力や宇宙に潜在する力を駆使して様々の超常現象を発揮し得るが、必要やむをえない時のほか、みだりにその神秘力を発揮することは絶対に無い。人類の進化を指導することをその使命とする。

超自然現象には、異常現象と超常現象とがある。
異常現象は心霊現象の多く、特に低級霊、動物霊によって憑依された場合の事象を主として指す。
宇宙は低次元の感覚世界より高次元の世界へと高まりゆく複数の超感覚世界より成り立っている。各次元の世界はそれぞれ特有の法則体系を持ち、低次元の世界とその法則体系とは、順次に、より高い次元の世界とその法則体系との中に包摂されている。高次元の世界の法則が何らかの理由によって低次元の世界に延長され、低次元の世界でその因果関係の説明ができないとき、それを低次元の世界では奇蹟と称するにすぎない。しかし高次元(この場合は四次元以上)の法則は、原則としては、魂が高度に浄化され、真理に関する深き叡智が得られなければ、これらの法則を駆使することはできないのである。

大師がたは、食糧、衣料、金銭を始め、日常の生活必需品を直接「普遍なるもの」かれ得ておられるのである。又、今日まで死を克服してきており現存の大師がたの多くが五百歳を超えていて、戸籍もそれをはっきりと証明している。

人間の実相は肉体にあらず、様々の心にあらず、神に等しいものである。故に、人間の実相は神と等しく無限の知恵、愛、生命、美、歓喜、調和、豊富、等である。それらをどこまで出すかは、本人が自分の能力、才幹をどの程度までと思い込むか、即ち「私はどの程度まで・・・である」I AM)かによって決定される。故に、人間は常に「私は無限(例えば、愛、知恵等)である」と観ずべきである。

GOD I AM(吾神なり) 私は実在する。
実相に対して、肉体、心等を仮相、小我、低我等という。

もっと多く受けるためには受けたものを出して与えなければなりません。

水車にとって水が動力源として役に立つのは、水を自由に流すときだけです。

各人にとって唯一の必要なことは、わが内にある神を喜んで引き出すことです。人はみな平等に創られていること、ひとはみな自他一体であること、イエスの為し給うた偉大なるみ業は誰でもなし得るものであり、

わたしは自分の肉体を「普遍なるもの」の中に於き、肉体の波動を高めることによって「普遍なるもの」に戻した。一切の質料が存在する「普遍」なるものの中に一旦奉還したのです。それからわつぃのIAM(実相)即ちキリスト意識を通じて、肉体を心の中に置くとその波動が下がり、遂にこの部屋のここで具現化し再現してみなさんに見えるようになるというわけです。

皆さんは神の分けみ霊であって、決して肉我ではないのである。あなたがたは自由意志であって、自動人形ではないのである。
わたしたちが皆さんにお願いすることは、心を解放しておくということです。

シッダのことば
「人体は植物や動物たちの体(わたしたちよりも年若く発達の低い同胞たち、という呼び方の方がわたしたちは好きなのですが)と同じように個々の細胞から造られていて、それは肉体の顕微鏡的な微細な単位である。
この個細胞には限りなき青春が秘められている。
諸君の肉体にしても、生まれ出る前の生命の種子のようにいつまでも若く活力溢れるような生長ができないわけはないのである。
人間の場合も、事故でない限り死や老朽というごとき自然律はあり得ない。
身体の調子は、ペストや流感のような伝染病、その他の病にも、自然にかつ容易に抵抗して維持されるようになっている。

若さとは人間の内なる神性であり、若さは霊的生命、美的生命の謂いである。生きかつ愛するのは生命のみである。老年とは、非霊的、死すべき定めの、醜き、非実在である。
恐怖、苦悩、悲哀の念が老年という醜きものを創り出すのえある。
悦び、愛、理想の想いが若さの美を創り出す。
努めて子ども心を持つようにするがよい。
寝入る前に
わが内はついねに若く、つねに美しい霊的な歓びで充たされている。わが心も目も鼻も口も皮膚も美しい霊体である。吾が身体は神の子の体であり、今宵いま完全である」と我とわが身に語り聞かせるがよい。

幼子のように愛らしくほほ笑む練習をするがよい。魂からの微笑みは霊的くつろぎである。
身内がゾクゾクするほど感動する習慣を養うがよい。次の如く断言せよ、「無限なる愛わが心に満ち、わが肉体は完全なる生命で戦慄する」

思案にあまる問題はすべてこの沈黙の中に持ち込むことが賢明であることを知る。

父なる神がわたしどもに与えてくださったもっと高度の、もっと完全な法則を使わないのでしょうか。ただそのために必要なのは、心を静めて麦を心の中で観ずること、言いかえればその理想的状況を描くことです。そうすると、きちんと手入れされて使用するばかりになっている麦が手に入るのです。

天国には物質というものは何一つ無く、すべては霊のみであることを知らなければなりません。天国とは完全なる意識の状態、今ここ完全なる世界であることを知らなければなりません。それを受け入れることです。

そのやり方というのは、まず必要なものを確かめ、その型を意識の中に描きつづけ、そのうちでも崇高なるもの、理想的なるものを観じ、それから「既にえられたり、善し」と言葉に出して言うことであります。

この村には平癒の廟というものがあった。建立以来この廟の中ではただ生命、愛、平和という言葉のみが口にされてきて、それが極めて強力な波動となって蓄積され、廟を通りぬけるだけでほとんどすべての病気がたちどころに癒やされるというのである。

あなたたちに教え、あるいは告げる者があろう。しかし、あなたたちは自身で業をなすべきである。他に頼るならば理想ではなく偶像を建てることになろう。

母は今では皆さんのいわゆる天国、つまりイエスのおられるところにいます。この天界は時には第七天ともいわれます。天界といってもそれは意識中の或る場であって、すべての神秘が啓示されるところです。このような意識の状態に達した人は俗人からは見えない処におりますが、現界に戻って感応力のある人と話したり教えたりすることができます。その人達は何かの乗り物にでも乗ってくるのではなく、自分自身の体のままでやって来られます。それはそういう方々は体を完成しているので、どこへでも欲する所へ肉体のままで行くことができるからです。別に生まれ変わらなくても、この世に帰ってこれます。普通の人は一旦、死の関門を過ぎてから再び肉体をもってこの地上に戻ってくるには、生まれ変わって来なければなりません。わたしたちのこの肉体は一個の完全なる霊体として与えられたものであって、わたしたちはそういう目で肉体を見て、よく保持しなければなりません。肉体を去って霊としてやってきた人たちも、今ではもう一度肉体の形を取って生き、肉体を完全にしなければならないと悟っています。

神のより高き法則が真に必要となった時、低い次元の法則を神の高次元の法則で置き換え得ることが、どんなにたやすいことであるか、これでおわかりになったでしょう。わたしたちは今、肉体のバイブレーションを火事のバイブレーションよりも高めているのです。従って火事もわたしたちを害することはできません。もし俗眼でわたしたちを見たとしても、私たちが消え失せたとしか見えないでしょう。
困難に遭っても自分の意識をそれ以上に上げて困難をただ超えるだけです。又、この方法で人間が肉体意識で自分自身に課した一切の制約を超越すること、即ちその上に昇ることができます。

現実に救われる者がたくさん出ると、一旦は宗教的関心を呼び覚まされ、奉仕者となる者がしばらくの間は多く出るけれども、この道を真剣に歩んでいくには非常に努力のいることが分かると、大部分がまたもとの生活にずるずると戻ってしまうということであった。

自分の仕事は自分でやるときめ、その通り実行しなければならない。そうしたとき初めて皆さんは自由となり、自立するのである。すべての人々が皆肉体は本来霊的なもので、破壊することのできないものであると、キリストと同じ悟りに入り、その悟りを常に持ち続けることができれば、わたしたちはすべての人々と意志の疎通ができる。

すべて善き想念は神の直接、完全なる表現であります。このような善き想念が浮かぶときは、直ちにそれを彼自身の理想として、我の手を離して神の御手にゆだねるようにすれば、この理想は完全なる相をとって具体化します。
人間が学ばねばならぬ一つの重大なことは、霊力や精神力とは永久に縁を絶ち、直接に神を表現することであります。霊力というものはすべて人間自らの造りだしたものであり、ともすれば人を誤らしめるものであります。

わたしどもは自分の行き方を人に押しつけることはできないし、また押しつけようとも思いません。人間の生き方は皆自由だし、それぞれの生きたい道を行けば良いのです。わたしどもはただ易しくて簡単な道、わたしどもがこれまでやってみて非常に満足のいく道を示そうとしているだけです。

この地上に一千年も行き続けている人がひとりいる。自己の体を完成し、どこへでも臨むがままに体を現すことが出来るが、今なお三十五歳くらいの人間の身軽さと若さを保っている。

われみずからは何ごとも為しあたわず、わがうちに住み給う父こそみ業を為し給う。

子供達は本来皆良くて完全なのですよ。悪い子どもというもんはないものです。完全な汚れのない状態で受胎したか、あるいは感覚的、物質的な方法で宿したかは、問題ではありません。完全な方法で受胎した子供達は、間もなく父なる神の子であることを知り、自分がキリスト即ち神の子であることを悟って、実相の開顕も早く、それだけにすべてに完全だけを見るようになるでしょう。

キリストは皆さんの中、またすべての人の中に住み給う。皆さんの身体は清く、完く、若く、常に美しくて、神聖であります。
神は皆さんを、まさしく神自らに似せ給うて創り給い、ありとしあらゆるものを統べしめ給う。

生命の樹は神の楽園の真ん中、つまりわたしたち自身の魂のいと深きところにあります。それから生え出て、完全に熟し切り、最も完全にして、生命を与える果実となったものが愛なのです。
愛という神心原理を働かせば、あらゆる悲しみ、あらゆる病、あらゆる窮境、人類を悩ますあらゆる欠乏を取り除くことができるのです。

生きていくことがあなた方には重荷なのですか。目前の問題に立ち向かうのに勇気と力が必要なのですか。病に悩んでいるのですか。それとも何者かを恐れてでもいるのですか、もしそうなら、心を上に向け、あなたを導き給う神に祈りなさい。神の不滅の愛はあなたを包むでしょう。恐れる必要はない。

「与えよ、さらば与えられん」

豊富を思うに当たっては細かいところまで考えることは一切捨てなければなりません。豊富という以上は一々細かいところまで考えてはいけないのです。又、いつも豊かな気持ちでいるためには、常に心を広げて「普遍なるもの」の中に遊行し、完全なる自由を大いに享受しなければいけません。

彼らの意識がイエスの意識と同じ層まで上ったとき、或いは同じ層で働き出した瞬間にイエスを見はじめたのでした。

魂の中に入れておかれた想念の種子は観念となり、心の中で心象となって、やがては具体化し、具体化したものをまた、私たちは体験するのです。
完全を思えば完全が出てきます。

死という関門を経て可視界を過ぎ去った者は、今度は幽界に現れます。それは俗人は心霊界で働くようになっているからです。物質界=可視界と本当の霊界との間に大きな幽界が存在するのはそのためです。本当の高度の霊的なものを目指す求道者はこの低俗な幽界を突破しない限り本当に高度なものを把握できるものではありません。高級な霊的なものを悟るためには、心霊現象を超えて直ちに神に至らなければならないのです。

人生の全目的は、内なる神我を現していくとき自ずから明かとなる。

人生におけるいろいろな制約は、それを克服して自分自身を解放しようという欲望を人に起こさせるものであることを知り給うがゆえに、イエスは「霊において貧しき者は幸いなり」と言い給うたのです。

想念や言葉というものは、波紋に相当する波長を引き起こして、円を描いて次々と波及し、ついには、宇宙を回って再びその発言者に戻ってくるのです。

わたくしたちが彼らの視界からいなくなるのは、わたくしたちの意識が低俗な人間の意識以上に高まったからに過ぎず、そのためにわたくしたちは低俗な意識の人々にだけは見えなくなるのです。

●要約
①人間の本質は宇宙の本質と同じである。
 ②故に人間には無限の能力がひそんでいる。
 ③この悟りと行とによって、人はこの本来の無限の能力を開くことができる。
 ④この能力が出た程度に応じて、自然の中にひそんでいる神秘な力をも発動することができる。
 ⑤ ③と④とによって人は超自然的現象、いわゆる「奇蹟」をおこすことができる。いいかえれば、人は真に自分自身と宇宙との主となることができる。

○奇蹟
 自然はいくつかの次元より成っており、行の伴った悟り(すなわち意識の拡大)が深くなればなるほど、より高い次元に意識が拡大すればするほど、その次元の法則を駆使することができるようになり、例えば、四次元世界の法則が三次元世界に延長され、特種の現象がおき、三次元世界の知識では説明ができないとき、それを奇蹟という。

○大師
 人間としてこの地上に生まれて以来、幾度も生まれ変わりを繰り返しつつ本人の進化(宇宙の本質と同一である、本人内在の本質を開顕していくこと)に必要な体験をしつくし、その体験より学ぶべきことを学び尽くして、一定の段階まで、意識の拡大、魂の浄化、カルマの浄化、本質(無限の能力)の開顕がなされた存在に、より高き存在から所定の鉄dきによって与えられた称号である。

宇宙根源の普遍法則ヨガ行法を修得した聖者のことで、キリスト教も仏教もヨガから発足したもので、キリストも釈尊もヨガの瞑想行法によって解脱して知能を開発してこの教えを宣布したものと思われる。


第二巻
キリストになるためには自分自身が本来キリストであることを宣言しなければならないこと、またそれを自分の肉体に現すためには純粋な動機、思い、言葉で、自分の求める生き方を生き抜いてゆかなければならないことが解りました。
このことを徹見した時、イエスは社会に乗り出してこの悟りを世界に宣言する勇気を得たのでした。

人は自分の権利を他人に与えられるものではないことを、どうか忘れないでいただきたい。人は同胞に対して道を示すことはできるが、自分の持っている徳を人に与えることは出来ないのです。

超古代に太平洋にあったムー大陸(レミュウリアともいわれる)が世界各地に植民し、それぞれの植民地において正しい宗教(人間の本質を神性とする)や、当時の宇宙科学を教え指導する者をナーカルといった。中米のユカタン、南米、インド、メソ歩田宮、カルデア、エジプト等は代表的植民地であった。

祈りの法則
汝の悟れる程度に、汝の祈りは叶えられたり。
汝、何を望むとも、そを祈るに、既に受けたりと知れ、然らばそを得ん。
秘訣は神と一体になること。
神に願うときは積極的な言葉を使うことです。
ただ、完全な状態だけを望むことです。
自分の魂に種子となる完全な想いだけを植え付けるのです。
完全な健康が現れてくるように求めるのであって、病が癒やされることを望んではならない。
神という言葉が種子であるということです。
何時、どこで、いかにして、などという計らいは、全部神に任せることです。

あなたはあなたで自分の役割を忠実に果たし、神の役割は神ご自身に任したらよいのです。
課題は当面の目的を果たすための一つの手段でしかない。確かに成し遂げたと自覚したなら、次にはその課題を捨てて更に次の成就を求めるべきである。

地獄とか悪魔とかいう特定の地域や住処があるのではない。それはただ悟りをひらいていない人間の想念の中にあるだけである。

人の三位一体とは、霊と魂と肉の一体。

ムー大陸の秘史によれば、ライオン、虎その他の獣類も当時は家畜として飼い馴らされていたのであるが、次第に人間が堕落して闘争するようになったため、家畜も人間の残忍性に感化され、今日の猛獣性を持つに至ったという。

馬賊連中はもともと非常に迷信深く、その上いつもペテンにひっかかるまいと警戒しています。こういう連中は一番恐怖に感じやすいので、結局自分が予期したとおりのものを見たわけです。

人は一切の形有るもの、想い、言葉や状況を支配するために創られたのであること。

病は罪の結果であって罪の許しが癒やしの重要な一要素であること、病とは神罰ではなく、自己の実存のついての誤った考え方の結果である。人を自由ならしめるのは真理である。
七度の七十度赦せ、許しがどこにおいても日常茶飯事となるまで赦し続けよ。
相手の憎しみを赦すために、イエスは愛に一心を集中したのでした。

自分が神性であると悟った瞬間、一切の制約より解放され、神の力を有するようになります。

罪を赦すことには二重の使命があります。まず第一に、過ちを犯した人もそれを愛する人をも共に自由にする。

神の完全さのみをしっかりと思い続けてご自分の体のバイブレーションを高めたとき、腕の萎えた病人の体のバイブレーションも高まり、ある程度まで来ると、彼の意識から腕萎えという意識が消え去るのであります。

自分の想念と注意とを、いつも神と神の完全性に向けることによって自分の体のバイブレーションを高め、神の完全性より発するバイブレーションと同調融合し、神の完全性と全く一つになり、ひいては神自身と一つになることが間もなくわかります。

また一方、不完全さを見て自分のバイブレーションを低下させ、その結果として不完全を招来することもできます。

暗い観念の中にまず数条の光を射し込むだけで多くの罪が消え、また意識の中に深く根を下ろしている罪でも、根気よく光を射しつづけておれば遂に克服されるのです。

正しい呼吸法が行われると、その人は自ら人間性を向上し、善行美徳の実行者となり、良心に反する行為ができなくなるのである。能力、胆力、精力、体力、判断力、断行力が増強して事業達成に導かれ(仏教の説く八正道のうち六正道はこの六つの力で導かれ、残る二正道は瞑想行法によって導かれる)、自己防衛力が増強して、あらゆる災害から免れる(自己防衛力のほか、守護神の援護が受けられるようになる)。自然良能作用が増強して常に健康である。このように呼吸法が身について完全なる心身を得たとき、初めて瞑想行法修練に進む資格が得られるのである。

一般の人々にとっては人生はあらゆる制約と因襲とに縛られたものであるが、この方々にとってはそれは無限、無始、無終の至福であり、長生きすればするほど、悦びは大きく生き甲斐は増えるばかりである。

人が神の波動に正しく合わし、完全にその想念の中においてのみ生きるならば、肉においてもまた完全なる体を示現したのである。

肉体のヴァイブレーション数が低まるか減少するのを放任するかすれば、その後に来るものは死である。

一切の物は、至る所あまねく存在している波動バイブレーションに反応しつつ完全絶対成るバランスを保っている無数の粒子包含する唯一の根元素に帰することを、科学は遠からず発見するであろう。

真理を素直に受けよ
霊こそが原始の、脈動する、原動力である。
ただこのような波動が実存することを知り、受け容れるだけでよいのである。
そのときこのバイブレーションがあなたたちの中を貫流する。

瞑想
現に今あるところ、最も困難なる環境にあり、多忙な、いわゆる人生の動乱のさなかにおいてさえ静謐を得ることである。
自分の息よりももっと近く、自分の手足よりも更に近いところの、自分の内より輝き出る神を瞑想することである。

神とは人間自身の想念の活動によって発生し、活発となるところのある力である。

祈るときは密室、魂という密室に入るが良い。そこで己が裡にまします父なる神に祈れ。

人間は神に向かって無限の進化を遂げ、進化の程度に応じて彼の中の潜在能力が開かれ、開かれた程度に応じて、自然の進化、宇宙の進行過程において彼に相応する役割を行うようになる。
宇宙に遍満するエネルギーや生命力を、彼自身に内在する神秘的器官チャクラを通して自然のある程度の創造と進化を促進するようになる。

体は意識に従う。霊主体従

自分の身体をこの大いなる創造的放射原理great creative radiating principleの流れる発電機にすることである。まずこの原理をあらゆる力を放射するものと観じ、それがあらゆる力の根源であることを把握することである。
ヴァイブレーションは生命である。

善悪いずれにせよ想念を放射すれば、それは四倍になって還ってくる。

あなた達の体には放射機構リフレクターとして使用し得る七つの中枢がある。この光を放射しようと思うだけで、そこから強力な光が輝き出て、いかなる電気の光よりも遙かに遠くに届く。

自分が居るのは神が居ると見るのである。

肉体の他に、幽体、霊体、本体、実相(生長の家)、幽体、感情体(霊体)、下級精神体、上級精神体、ブッディック体、アトミック体、アヌパダカ体、幽体、感情体、精神体、エネルギー体等、があり、肉体、幽体は常識的にいって下級体、それ以外が高級体になる。
正しくは、上級精神体を含め精神体以上を高級体という。

釈迦牟尼の説法
世界には二つの出来事しかない。人間の意識が確立される以前に既に存在し、現在も実在し未来も存続するものと、人間が人間の智恵で今日まで考えて来、又将来も考えて行くものとの二つである。

一国民が神について思う都度、その国民は神になっているのである。

新人種は、栄枯盛衰のいずれにあろうと、悲しむことなく、大いなる愛と真の平和とを魂のそこから求めることこそが、神と人とに定められた真理であると知っている。

豊かさの感じや大きな歓びのバイブレーションを増幅して放送し、全人類をそれで取り巻く貫いておられるため、人類一人ひとりがその気になれば、それらを自分のものとすることが出来るのである。

個人が全人類と協力して適正な想念震動を起こすと、諸元素はその型の中に殺到して型を満たすほかないのである。

我々のいわゆる宇宙は、ある一つの中心太陽を公転する同様の九十一の宇宙の一つにしか過ぎない。この中心太陽の大きさは、全九十一の宇宙の全塊量の九十一万倍もある。

光線は大原子線、大宇宙線に接触することによって、決定的に影響を受けかつ反射されて、その粒子は広域にわたって放出されるので、幾千もの惑星群や星群がその位置を錯覚され

人は本来神であるが故に神となりうるということ、その反面、また自らの想像力によって自らを神の国より疎外し、自分自身で魔圏を創りだし、それを実在と錯覚することもできることは、全く科学的であり、論理的ではないでしょうか。

皆さんの中には肉体浮揚を見たことのない人も何人かいて、不思議がっています。しかし本当は何の不思議もないのであって、それはもともと人間に備わっている力なのです。われわれはそれを昔から「統一ヨギ」の英知として崇めています。仏陀は肉体浮揚によって、多くの遠い土地を訪れられたものです。

あなた方は束縛と恐怖からの解脱を讃美し謳歌する。しかし、「束縛」という考え自体を忘れ切り放してしまわないかぎり、実は「束縛」が心の中に染み付いていることになるわけで、

聖音アウムは、基本的、包括的、全包容的、且つ無限である。
その音域はあらゆる名前と形態とを含む。
形あるものはいずれは滅ぶ。しかし形が現れる以前の形なきもの、ないし実在的なもの、即ち、霊と名付けられるものは不滅である。
不滅の実在、アウムを発する。

吾は神なり、しかして汝は神なり。あらゆる魂はその始原の純なる相において神なり。

彼らは重荷を心の中で放してしまう、するとその重荷は存在しないことになる。

一つの的を射当てようと思う場合は、全想念を的の中心に集中しなければならない。

あなた方の主観を客観にしなさい。
聖なる霊的生命、即ち内在の神を目的とするのです。そうすれば神が一切を引き受け給う。

われわれの体が、大霊のヴァイブレーションに同調して振動するならば、われわれは一切のバイブレーションの中でも最大の光のバイブレーション、一切のバイブレーションの父、即ち神となる。

わたしたちの体でさえ、低次より高次の状態に変性している。
わたしたちは自分の想念を、従って又、自分の体を、より高きバイブレーションに意識的に同調し続けることによって、この変化を意識的に指揮することができる。
こうして、私たちの体を、より高き振動率に意識的に同調させることによって、わたしたちはその高きバイブレーションそのものになる。

完全なるものが自分の中に存在するのを観ぜよ。この完全なる存在を自分の真我、神なるキリストの臨在と観ずる習慣を養え。

神の名を使用すれば使用するほど、あなたたちの体のバイブレーションはそれだけ高くなる。

われわれに課せられたもろもろの信条やドグマは、神から来るものではなく、実は人間が造り上げたものであったことに目覚め、かくしてそれらの虚構を遂に放下する悟りに達するようになる。

もし現象がよくなければ、その矯正法は「想いを変えよ」ということです。

低い魂の低いバイブレーションの人々が害意をこめた力を出しても、こちらがその力を集中してそれに真実の愛と祝福をこめて、本人達に送り返すことができるのです。もしもそれに抵抗するならば彼らは自滅するだけです。愛のエネルギーを送り返す方では、腕一本だって挙げる必要はないのです。

ピラミッドは、紀元前数百万年より同九五六四年まで続いたアトランティス大陸において建てられた。同大陸は四回の大変災によって次第に海底に没し、紀元前九五六四年完全に水没したが、これらの大変災を予知した当時の高僧たちが「秘められた教え」と技能とをもってエジプトに移り、その秘められた智と術とによって、紀元前約七万年に建てたのがギゼーの大ピラミッドである。これは「秘められた教え」を奉ずる聖同胞団への入団と受戒との式を行い、且つ錬成のため、同時に、記念と後世におけるこの教えの復活に備えた構築である。

この地上一代で解脱する方法があり、その方が遙かにたやすいことを悟得してほしい。

「大いなる眺望」を一見するまでは、修行し続けることである。
この「大いなる眺望」を一瞥したとき、あなたたちの苦闘は一旦やみ、心のビジョンが明らかになる。しかし肉体はなお、殻の中にこもっている。新しく生まれる雛の頭は殻から出ても、なお苦闘をつづけなければならないことを知るが良い。

本当の謙虚な魂の持ち主は一切が神であることを知っているので、完全なる同胞精神、人類各人に対する真実の愛と尊敬の念篤き大国民が出来上がったのである。
神の呼称や教義の違うことが、闘争や対立の原因になることはなかった。

正座もしくは直立体で姿勢を正し、重心が円田に落ちるような体位をとる。全身の力を抜いて全肺内の空気を吐きだした後で静かに吸息する。このとき臍を前に出し、下腹部をふくらめる。この吸息と下腹部に飲み込むような気持ち(実際は肺に入るのであるが)胸圧のないように下腹部にやや力を入れてしばらく留息し、肛門を締める。(肛門を締めることが重要である。しばらく留息したあとで静かに肺内の息を全部吐き出す。呼吸の時間は吸息2、留息8、吐息4の割合とする。留息の時間をだんだん長くする。練習を積めば一分間くらい留息できるようになる。

全人類の心からの願いである平和と幸福とは、人類に対して他より与えられるべきものではなく、正直な努力によってみずからかちとるべきものなのです。政治上の奇蹟などというものはありえないのです。自分自身の智恵で自分の運命を解決する力が自分にのみあることを人間は悟るべきです。

人間は、自分自身が実は普遍法則そのものであると悟ってはじめて、自分にとって何が善であるかを発見できるのであります。
なぜなら普遍法則は共通の善と不可避に結びついているからです。

コトバというものはそれが有声であれ無声(念波)であれ、いったん世界にむかって発せられると、文字となったコトバよりもはるかに偉大な影響があるものです。

本当の奇蹟はまず第一に、そして常に、沈黙の中に為される。

仲裁を世界平和の一道具とみなせば、この運動はインドのパンジャブで始まりました。
インドはいまだ嘗て侵略的態度を取ったことはないし、その地域で公然たる戦闘行為をそそのかしたこともありません。
事実インド人が一般的に極めて宗教的、瞑想的なのは人間としての遺伝のほかに、有史以前より輩出し今でも高級霊界やヒマラヤ等で活動している多数の高級霊たちのオーラ(影響力)の中にあるからとされている。

変革はまず第一に個人自身の中でおこらなければならないのです。

意思力が自分を支配する方法ではない。
人間は自分の意思を原理の働く線までもっていくことはできるが、それから先は原理そのものが原動力なのです。
人は自らの意志を或るもっと高い権威に従わしめ、そうすることによってその権威の具現者となり、その力を獲得する。

イエスは困難など本来実在しない事を見抜かれたのです。
といってそれを否定したというのではありません。
ただイエスは常にそれらの困難を超越した真の霊的状態(完全円満なる実相の状態)まで高揚されたのです。

意識の働いている状態を心と考えてよいが、同じく意識の働いている場合が霊です。

意識の本来の働きは心を動かすというよりは、心を向けることです。

人が唯一心(神)の支配力を感じうるようになれば、人間心の、いわゆる「頭脳の嵐」もろもろの惑乱、顚倒妄想も同様にして静まるのです。

病気直しやいわゆる実証は無から有の中に存在させるのではなく、実相の世界においては久遠の事実として普遍している状態に目覚める事に過ぎない。

サンスクリット語で白鳥をhamsa というが、これを分解すれば、a ham sa=I am He

人間が完全なる進歩を遂げるには、いかなる状態に面しても常に内部に静謐が保てるようにして対処することにその秘訣がある。

反対の現象が沢山あっても、こちらさえ反対しなければ、それは反対の中に入らない。

何も自力で改めて発見し直す必要は無いのであって、啓示したことを受け容れればよいのである。

護持の霊波を受ける方法
丁度、ラジオ放送による音楽を電気層からピックアップできるように、この影響力は霊的層でピックアップすることができます。

点が線となり、線が円となり、円が球となる。すべての事物はそれぞれに孤立し、不調和に見えるが、それを究極の唯一なるものに関連づける過程を絶えず続けていけば、遂に一切一体、一者という点に到達します。

結局、彼らは大抵、一切は常に今ここに既に備わっているという自覚を持って唯一心(神)とともに働いていました。

人間はこれから自分のする事をすべて予見することができるのです。

偉大な人々は過去のことや、目的達成の途上にある障害や、あれこれのもっともらしい理屈や言い訳にはほとんど顧慮することなく、これから自分のなし得ること、あるいは、為すべき事を専心塾講する事です。

牢獄とは畢竟するに、自分自身の特質の萎縮、あるいはその反射にすぎない。

すべてのものは先ず上の界層でおこり、然る後にその反映がここ下界に起きることになっている。

予言は直接に地球に接しそれを取り巻いている精神層から大抵はやって来るものであって、実は人間自身の制約された物の考え方の投映なのです。

神秘主義mysticism は秘教occultism に対応する用語で、前者は主としてエネルギーを駆使して現象や形態を操作しつつ、本質=神に到達しようとするのに対して、後者は本質=神との合一を先ず目指して、然る後に現象や形態を支配しようとする。

最高のコトバは神より始発する。
「神は○○であるから、私も○○である」
既に実現せりと感謝せよ。

完全を求めるなら、既に自分は完全であると悟ることである。

他物あるいは他者に対する自分自身の心の動・反動を制御することこそが力の根本的秘密の一つであろう。
自分の心を完全という神の理念に完全に一致して働かすことこそは天と地における一切の力を掌握する基であろう。

一番明るい言葉が一番真理を含んだ言葉なのである。

私たちが自分の意識を神意識にまで拡大すると、自分自身を始めすべてのものが最高の状態にある事がわかります。
その時初めて、これまで死すべき者乃至物的なるものと霊との間に介在するヴェールが完全に除かれる。
といっても、この霊的意識実相覚は感覚の活動を排除するものではありません。

トランス(三昧)は感覚活動の部分的表現にすぎません。
それより私たちは自分の意識をいつも本当の活動状態、即ち完全、にもっていった方がよいのです。

心霊意識、すなわち意識の下層に興味を持つ余り、せっかくの地上の全生涯をそれにかけ、結局本当の意識を表さずに終わってしまう人もおります。
それを解決する最良の方法は、そのようなものを放下してただ全体と一つになることだけです。

全一の意識には、霊媒その他の形の催眠を通じては決して到達できるものではありません。

私たちはことさらに内部を意識することはないのです。なぜなら内部と外部は一つだからです。常に全体が明らかなのです。

否定法は常に人間をいっそう迷妄の中に突き落としてしまうものです。なぜなら否定法は心を形の上では一応否定している状態に集中させるから、一層その状態を増強させる虞があるからです。

カルマという負債など存在しないこと、魂はそんなものなど背負って来るものではないことが今では証明できます。霊的に大悟すれば、カルマの状態その他何にせよ不完全な状態など問題ではなくなります。

常に想念こそが決定要因。常に自分の根源すなわち神に回帰することによって、人間は自分の心を通じて自分自身のはじまりから既に実在する完全なるものを受け継ぐのであります。

私たちは先ず第一に、内在のキリスト自身と一体にならなければなりません。

睡眠の世界では意識は満遍なく完全に働くようになり、知る行為そのものになっています。

睡眠及び覚醒状態は全く同じでなければならない。

悪夢を経験しながら、もし自分が目を覚ましていたらどんなことを考えるだろうかと、自問自答することによって、極端な悪夢のケースを自分で治した病院もいます。
もし自分が霊的実在を徹見し得たとすれば、一体自分にどんなことがやれるだろうかと自問すれば有効。
就寝前に自分は「完全」と一体であると宣伝しておく。

いろいろな問題や消極的状態に直面したとき、自分が神霊意識の中にある、すなわち、自分が正に神の霊であるとの自覚に入っていたらどうするか、と自問すれば、有益。

歓喜は実に最高の状態であります。
歓喜は魂の高揚状態であります。

限定をしている意識は全て限定している程度だけ催眠術にかかっている。人間は太初から一切のものに対する力と支配権とを与えられた自由にして全能なる存在である。

自分自身の中に神の実在することを体得しない限り、何人も本当に神を知ることはないのです。

「私は神である」という真理の本当の内容を完全に悟りきってそう宣言するならば、どんな状態でもたちどころに癒えてしまうのであります。

「十戒」の本意は、「あなたたちが法則と一つになれば、あなたたちは○○をしないであろう」ということだったのであるが、「あなたたちは、○○してはならない」と翻訳されてしまった。

すべての形態は独立の存在ではなく、内なる生命としての神霊の完全な具象化に他ならない。肉体に対しても生命すなわち神霊、実相として見るのです。

あなたの体は生ける神の宮である。
体が本源と再び結び合わさった時、それは純粋にして完全となり、光り輝く。

天とは内にありてしかも至る所に臨在する平和と調和という意味。

何人であれ己自身を統制しうる人が帝王。

大師方は時に数百日もの間全然食べずにすますこともある。外観は何も食べていませんが、周囲にあるプラナすなわち霊的質料を食してはおられます。

イエスにパンが必要である以上、イエスは何もパンにかかずり合う必要はなかったのです。パンが必要である以上、パンは既に在るのであって、なすべきことはただそのことに対して感謝するだけであることがイエスにはおわかりだったのです。

自分がそこに居ると思うことは、実際にそこに居ることである。

ある人がある高さの境地に到達したということは、自分にとって自分にもそこまで到達できるという啓示なのだ。この考えをいつも持たねばならない。

すべての人々をキリストと見ることは、一切の差別を瞬時に解消することになる。
これこそが、地上に平和と善意を確率する新秩序の秘訣である。

自分の体を変えようとしたり、世界を変えようとするのではなく、ただ実相を認識し、物事一切に関するすべての虚妄の観念を捨てることである。

インド人が人間の寿命を七十歳と考えているのは、この年齢が人間の最大の業績をあげる時期だということです。人間は七十歳にもなれば完熟すべきです。いいかえれば生命の真実義を最大限に悟得すべきです。
又、人間はこの完熟までの期間の五倍は長生きすべきです。

大師方の生活はただ奉仕あるのみ。

大師は最大の下男です。

子どもたちは生命を豊かに生きるから幸福なのです。彼らは生命に何らの制限もしません。

生命とは与えることなのです。

聖書によれば、罪は死の原因となっている。罪とは、生命の目的に調和しない一切の想念と感情を言う。これらが、肉体を通じて外に現れようとする生命を妨害している。

物質体である肉体が創られる前に幽体、霊体が造られており、肉体のごときは微細な点に至るまで幽体の複製である。

自分への奉仕を人に要求した時に必ず神と人から分離してしまっている。すべてに対して奉仕する時に、われわれは遍満する者「神」の中に浸っている。

自分の敵を愛し彼らを高めることはまさしく特権であります。
なぜならそのことにより自分自身が高まるからです。

第五巻

問 過去の出来事を撮影する場合、どういう方法で過去の事件を対象として選ぶのですか。
答 過去の事件はみんなある周波帯の中にありましてね。人間が口で言うこと一切、声・言葉など、直ちにそれぞれの周波帯をもって、いつまでも響き続くものです。


神という言葉は、一秒間に一兆八千億回もの割合で振動します。この振動を実現したその瞬間に、その人自身がその振動そのものになるということです。

自分自らが神であると名言すれば、その都度、あなたはまさしく神になっているのです。

イエスは人間に、自分の想念をある明確なる目的の達成に使用すべきことを教えられたのであります。そうしてその目的とは人間の実相たる神性開顕を成就することであります。

神というこの言葉の波動だけでもわれわれが体内に造り上げてしまっている催眠状態(老・病・死・苦等)からわれわれを抜け出させてくれる。

強力な積極的言葉と思想を毎日根気よく強烈に繰り返しておれば、今まで眠っていた頭脳細胞を発達させ、遠からずして自分が完全な支配力をもつ主(ロード)となっていることが自分でもわかるようになります。

分別がつかない場合は、できる限り愛を注ぐことです。それ以外の想念を出すことは一切拒絶することです。そうすれば結局は調和に導かれるものです。

もしわれわれがこのように、どんなことがあっても積極的な考え方を続けていくならば、遠からずして病気などなくなってしまうでしょう。

「解らない」という考え方を捨ててしまって「ちゃんと解っている」という態度に切り替えることだ。
本に書かれているほどのものなら、本当は自分の実相においてはすでに解っていることなんです。

「愛」はその周波数では非常に「神」に近い言葉です。愛はまた、その人の周囲にきわめて顕著な形のオーラを築くので、それはちょうど防護服のようなものです。

聖同胞団の仕事
①地上のあらゆる生命体(鉱物・植物・動物・人間)の意識を呼び覚まして行くのに適当な条件を与えること。
人間界では、その内在の神性のすべてがより多く現れ出るようにする。
超人間界(大師たちの世界)では、特に「集団意識」の開発に主眼がおかれる。
②主宰神の意志の伝達
人間や自然霊及び天使達に、地球主宰神と太陽主宰神の意志を伝える。
③人類への垂範

ピラミッドについて
アトランティスの水没に備えて、永遠不動の得度場兼宝庫、兼神秘力を揮う神殿とするために、ギゼーの大ピラミッド二基が建立されたのである。(その後アトランティス大陸は八万年前及び九、六五四年前の合計四回にわたる火山の大爆発とそれにつづく大津波とによって、その超文明、堕落仕切った背徳行為とそれを生み出した合計数億の人口が海底深く没し去ったのである)
大師方は地球の引力を任意の時間無効にし、いかに巨大なる物体でも、任意の高さに浮揚させ任意の方向に自由自在に移動させる秘法を知っておられ、この秘法によってそれは構築された。

人の地上における寿命の長さ、健康・不健康は、
①基本的には、彼の前世の因果カルマ
②二次的には、今世における因果カルマ
によって決まる。

もろもろの災禍厄難は、①死者の怨念による場合と、②神域・神仏への不敬を働いたために眷属による懲らしめ、③迷霊の憑依、④霊界の法則を意識的に又は無意識的に犯した場合の反動、⑤その他、本人のいろいろなあやまち、等によって招来された場合が少なくない。

瞑想行法は時と処を問わないけれども、なるべく早朝洗顔直後もしくは就寝前に必ず毎日欠かさず実行することが必要である。

静座(結跏趺坐もしくは正座)して姿勢を正し、背を伸ばし腰を上げ、重心を丹田に落とし、床の間の自在神(実は自分の魂「真我」である)に礼拝祈念し、合掌した両手を臍体の上におろし、プラナヤマを行う。意識したプラナヤマからいつとはなしに自然呼吸に移る。瞑想行法は直感、霊感もしくは啓示を受け容れる無念無想の瞬間をつくることを目的とするが、心の働きは走馬燈の如くなかなかそのとどまることがないから、その逆に、心を何者かに縛り付けるのである。そのことのみを考えて、他のことは絶対に考えない一心集中法を行うのである。